「何を食べても生きていけるじゃないですか?」
ってある方から言われたことがあります。
別に悪気があって、とかではなく、
本当に純粋素朴な疑問として。
「どうしてそこまで食にこだわるのですか?」
という問いかけだったと思います。
「確かに、何を食べても生きて行ける。・・・でも・・・」
ってなんかずっと気になって、
それについてずっと考えていました。
そこで、まず
「何を食べても生きて行ける」は
「栄養価が揃っていれば、何を食べても生きて行ける」
とも捉えることができるな、って思いました。
栄養って大事ですよね。
何を食べるか?の食のクオリティは身体のクオリティに関わってくる。
でも、栄養学の機能的価値だけを追いかけていたのでは、
本当に健やかで幸福な食卓の実践にはつながらないのです。
栄養さえそろっていれば、味付けとか美味しさは二の次で料理された(病院食的な)ものや
サプリメントや固形・リキッド栄養食品・パウチ食品だけの食事。
そういうものでもいいじゃない!ということになってしまいますよね。
いやいや、やっぱ「美味しいものが食べたいよね!」
食感、匂い、見た目から得られる満足感も大きいですし。
それでいいという人もいるかも知れないけど、どこか寂しいですよね。
栄養素だけを追求しても本当の意味での健やかで幸福な食事って叶わないのです。
じゃあ、
「何を着ても生きて行ける」
「どこに住んでも生きて行ける」
「どんな仕事でも生きて行ける」
だったらどうだろうか?
という考えが浮かんできました。
「何を着ても生きて行ける」
はい。確かに生命は維持できます。
身体を覆って、寒暖の調整ができて、動きやすい
という着る物の必要最低限の機能性だけを重視するなら
どんな色でも、装飾でも、素材でも、どうでも良い。
ということになりますよね。
それってどうですか?嬉しいですか?
自分が素敵に見える、着心地の良い服、好きな服を着たいですよね?
そういった情緒的価値も楽しみたいはずです。
「どこに住んでも生きて行ける」
雨風避けられて、暖かくて、布団があって、台所、洗面所、トイレ、、、
最低限の機能があれば生命は維持できます。
でも、どんな間取りでも、インテリアでも、どんな土地柄でも良いですか?
自分の好きな空間を作るためにインテリア、壁紙、照明など色々とこだわって選びますよね?
近隣の環境や景観も重視しますよね?
自分が快適に気分良く過ごせる空間を作り上げる。
それが情緒的価値です。
「どんな仕事でも生きて行ける」
仕事も、生きてゆく糧を得るためなら職種は選ばなくても良いですか?
自分に向いている職業、職場を選びますよね?
やりたいことへの夢や目標に向かって行動しますよね?
情熱を注げる仕事で食べてゆく。
これは一番皆が望むことだと思いますが、
そういう情緒的な部分を大事にしたいということですよね。
食べることもこれらと全く同じなのです。
なぜか、着るもの、住まい、仕事はめちゃくちゃこだわるのに、
食だけこだわらないケースがよくあります。
本当に不思議です。
まず食ありき、順番が逆だといつも思う。
栄養価という機能的価値だけではなく
どの食材をどのように味付けして、
どのように盛り付けて、
誰と食べたいか?
料理のスタイルも和食が良いのか?洋食が良いのか?
たまの外食は気分転換になるし、
気心の知れた仲間との食事は楽しいし、
季節感のある食事も楽しい。
そこにどんな飲み物を組み合わせるか?
どんなシチュエーションで食べるのか?
ゴージャスなコース料理がいいのか?
気さくな居酒屋が良いのか?とか。
そういう情緒的価値もしっかり備わって
初めて食から幸福を得ることができるのです。
人間と動物と「食」において違う点は「文化」があるか無いかということ。
人間の「食」は「文化」も絡み合っているから、
動物の餌のように機能性だけでは満たされないのです。
日々、どんな食スタイルを選択するかは
その人のライフスタイルが反映される。
むしろ逆に、どう食べるかの食スタイルは
そのままライフスタイルを形成してゆくのです。
居酒屋的ライフスタイル?
高級レストラン的?
オーガニックカフェ的?
キャンプ的??
自分の好きや憧れなどの情緒が「食」の選択に反映される。
そしてそこに「栄養」という機能的価値をきっちり織り込んでゆく。
そうした機能的価値と情緒的価値が両立した「食」のあり方が
自分らしく、楽しく、豊かで幸福感にあふれた食生活になってゆくのではないかと思います。
自分はどうありたいのか?
栄養価や安全性などの機能的価値を確保しつつ、
自分にしっくりくる情緒的価値に目を向けて食の選択をしてゆけば
健やかな食生活も、もっと楽しく実践できるのではないでしょうか?
生き方の自由度が広がって、価値観の多様性が増しているのと同じだけ、
人間にとっての「食」のあり方も「多様性」が増してより複雑に繊細に選択肢が広がっていると思う。
と、ここまで考えて
こういうふうに「衣食住」の情緒的価値にこだわれるって
実はめちゃくちゃ贅沢なことなのだと気づきました。
この世の中には、貧困から食べられなくて飢えている人、
着るものも選べない人がたくさんいる。
だから、数多ある食料から、自分らしさを基準にして選べるって、
ものすごく恵まれている。
この上なく幸福な状態にある!ということ。
それだけで感謝が溢れるし、幸福感で心が満たされませんか?
その豊かさの中に生かされていることに気づけば、
もっと自分を大切にしようって思えるのでは無いでしょうか?
贅沢をしなさいという話ではなく、
自分という命、
それを養ってくれる命、
その命を育んでくれる大地を
もっと大切にしようって思えませんか?
だからこそ、ただ栄養を摂取する機能だけではなく
「心」の部分、情緒が大切だと思うのです。
無感動に食べ物を取り入れるのではなく、
ひと口ひと口に
「美味しい」「嬉しい」「好き」「楽しい」「心地よい」
という幸福感を感じたいですよね。
それが、人生を豊かにする「食」に必要な要素
「情緒的価値」なのです。
生き方そのものが多様化しているということは
自分の中の軸を確立してゆかないと、どんどん行きにくい時代になっています。
それと同じように、いかに食べるかも多様化している。
自分にとっての「心地よさ」は人それぞれ。
「発酵」を通して「食」と「健康」のあり方を常に模索して
20年来見つめてきましたが、
「食」を見つめることは「自分自身」を見つめることであると年々、その思いを強めています。
「食」=「人生」リンクしている。
難しいことは何も無いのです。
「食」を楽しめば「人生」も楽しめる。
本質は実に単純。
楽しむことこそ「生きる」こと。